FRUITS TIME

肉片

4月

 
4月18日
引っ越しに時間がかかり、実家に泊まる。
仏壇に曽祖父・祖母の写真があり目が合う。
 
 4月19日
犬の墓を掃除して花を埋める。
東京まで車で移動する。高速道路でトラックが燃えていて渋滞になっていた。
 
4月20日
好きな友人に会う。
家帰ってから豚のしょうが焼きを作った。どうして'料理'が'作る'という動詞に係るのかわかった気がした。(?)
 
4月21日
原美術館に行く。
ひさこさんから300年のヒントを貰った。
 
ソフィ・カルの「限局的激痛」がいい展示だった。他人の不幸と自分の激痛の距離感をつめたり離したりする行為が可視化してあった。激痛っていうのは、どのくらい人に見せつけられるかで形が作られていくから。痛みに包まれて死んでいくこともある。人生で一番最低な場面のこと思い出すような写真、何回も何回も語られるおなじ場面をみていたら例によって自分のことに重なって省みた。
印象に残っているのは朝起きたら失明していた話と奇形児を生んだ話。
 
calling
電話があるいくつかの風景が現れて、構図の真ん中にある電話が鳴り出すが、誰も出る人間がいない。電話は切れて次の場面に移る。
 
他の部屋では電子ピアノが記憶された月の光を演奏していた。今回の展示は人がいない場所で人間が作ったものが存在したり、映像のなかで一部分だけアニメーションだったりすることによって、アニメーションがハンドメイドだと感じられて面白かった。(無人電子ピアノは不在を感じた)
 
 
てのひらで作ったり、歩きながらできたりするものが好き。自分もできることなら日記を歩きながら書きたい。東京は歩くには広すぎて、お金がかかりすぎて、人の気にも当てられてもう疲れた(まだ早い)。せめて服や鞄は軽いものにしないと肉体が重たくてきつい。
 
帰って300年のヒントを読んで泣いた。全部読むことができなかった。
ひとりの自分に吹く風を思いだそうとした。わたしのこと嫌いでもいいって言いたかったし、わたしはわたしの中にいる完璧なもののまえに仕方なく涙をだすけどでもほんとはそれは昔の人のことじゃなくて、今の自分にむけてやりたいと思っていた。今の自分が大丈夫だったら、こうして多く思い出す必要がないんじゃないかなと思った。今でも雨の日に新宿いくと同じように具合が悪くなる。